段木の定義として徳山村史では「大垣藩の武士に給与されていた薪材
のこと」となっています。昭和初期の美濃徳山民俗誌では「売却する事
を目的とした薪木のこと」となっていますが、どちらもお金と同じ様な
扱いをしています。奥美濃山地で産出される段木が平野に下ってきて商
品として流通していました。

奥美濃山地では大垣藩、尾張藩、徳山藩等
の領地で伐採し、それぞれの場所に積置きし
ていた。揖斐川への流送は混乱を防ぐため領
地別・元締め別に期間を分けて行い、森前で
は予め藩ごとに決められた場所に川上げし積
み立てした。(この際に量を計測し流送によ
る目減り分や適性に流したかの確認をした)
左の図は薪木を高さ六尺×幅一尺の長方形に
積み上げたものを木棚一間と呼び計測単位と
しました。これは実際に伐採や川狩りに従事
した村人の賃金算出の元にもなりました。
山間(流送前の山元での計測)と森前間とで
差が出たので、予め約4割の損失を見込んで
いたと言われています。
奥美濃は農地が狭隘で農業で年貢を納めさせる程の生産量がなく、ま
た檜などの有用な木材も少ないので、雑木を薪木に作り替えることで換
金できる事に着目して年貢として納めさせていました。また、現金収入
がない山地であったので、段木生産は領主・村民の双方にとって唯一最
大の財源であった。生産高は村に割り当てられたので、村は相当の仕入
れ金を前借した事もあったと言われています。そして伐採をする杣(伐
子)には支度金として支払われ、それが杣の生活必需品の購入費となり
ました。
越前からの出作り民も段木生産に携わっていたようである。木地師や
米作りの為に季節労働に来ていたと思われますが、出作り村徳山村の概
況・杉本寿著には「一戸当たり男一人15間(山)の地租」とあり、これは
の昭和初期の状況ではあるが、地租として以前から行われていたと思わ
れます。
森前は段木の集積場と同時に舟運の拠点でもありました。上流は藤橋
まで奥行舟(小型)、下流へはせどり舟(中型)が運行し、それらの舟荷の
積み替えが行われました。(木炭、木材等)
また、森前の元締め達は、各地域からの商人と交渉・契約を交わし段
木を裁いていました。そして、これらの段木は舟に積まれて、下記の経
路で下流域の織屋、酒蔵、味噌蔵、その他に販売されました。
【経路】
森前 → 大垣
森前 → 桑名 → 名古屋 → 一宮・起・笠松
門入村へ
朝鳥明神へ
長者平_長慶寺へ
北方・森前土場へ