芥川龍之介の羅生門に「薪の料(シロ)に仏像や仏具を打ち砕いて売った」
というくだりがある。信仰よりも今、生きる事が先で、荒廃した極限状態
では 薪(タキギ)として生活の足しにしても仕方ないと言っている。
これは人類が火を使うようになって、燃やしてきた薪は長い間、人間生活
には欠くべからざる物だった事が伝わってきます。
北方・森前は揖斐川が濃尾平野に出る中流域にあり、上流からの土砂や
樹木等の残骸物が堆積して河川沿いに沖積低地が形成されていた。森前と
いう地名も朝鳥明神の鎮守の森の前と言う事から名付けられたものと言わ
れ、この地は明神[*1]と深く繋がっていた事を示していて、真に仰ぎ見る
奥深い神山地から出でた森前と言えます。
この揖斐川中流域では縄文後期には、水田が造られ稲作が行われいたと考
えられる。そして多くの民が集まり村落が形成されて行きました。
後世には森前は段木(薪)の集積地として繁栄しましたが、揖斐川が緩く
カーブして急流から平坦地に出る処で、元々漂流物を拾い上げるのに最適
な場所でもあったと思われます。記録[*2]に残こされているものとしては
足利時代には、森前より少し下った東野に番所があったらしい。 しかし、
民の生活に欠かせない燃料としての薪は、森前が持つ地形的な好条件から
民が住み始めた頃から取り扱われてきた事は間違いないと思われます。
*1 : 明神は民を救済するために現れた仏の化身とされている。
*2 : 揖斐川町東野栗野氏系図に「弘治二年(1556)久瀬川洪水・番所西東
潟木流ル」とあり、揖斐川は山からの出口付近で二つに分かれ、両
流に一つずつの番所があったようである。豊臣秀吉の野山川改検の
頃には南方と房嶋にあったが伊尾川が廃川となり嶋村へ移った。
左の絵図は美濃国絵図から抜
粋した森前付近の絵図ですが、
北方、森前、堀、東野、房嶋の
村々が見え、織豊時代には大変
賑わっていた事と思います。
また、東野・番所近くに堀村
があって堀一族が活躍していた
事が窺えます。江戸時代の事で
あるが「北方・森前で留め川上
げし積み立て、その量を検査」
とあり川上から流送した段木の
量を査定し、記帳していたと思
われます。
段木流送へ
朝鳥明神へ