長者平_長慶寺 門入集落史碑の金鶏伝説と寺院の話しから考察すると、ここに長慶寺の元寺が 存在したと考えたくなるが、木地師研究の杉本寿氏の論文「徳山郷の栃木権」で は美濃木地師群が徳山郷を拓き、大部分は本郷地域に(農業)定着したが、依然と して天業(木地師・山師)を継続した第1群が櫨原村と鬼生谷に村を作った。 また、 第2群は不動山の麓に入谷村を作った。 第3群は「門入から越前街道との中間地にある長者ケ平村を作った」とあり、 杉本氏は長慶寺_元寺について、第2群の入谷村の事して書かれている。 奥美濃の歴史と意義 奥美濃は古代より、山の恵を求める民が寄り来る山地であった。 日本列島の の中心で、しかも都も近いので往来が困難な山岳地でありながら、多くの山民や 修行僧が森林資源や朱砂・銅等の鉱物採集のため入山していた。 また、越前も初期畿内政権の頃から開発が進められた地域であったが "越"の名 が示すように、北進し難い山地で畿内政権は海路(琵琶湖・日本海)を主な交通手 段とした。この様な見方をすると一般民衆にとっての移動手段は奥美濃と越山地 とはほゞ一体と考える事ができるのである。(国境を越えて人々が移動・交流) 今回、現地調査等で調べると、昔は越前と奥美濃で、今では知りえない道を使っ ていた事が判った。(奥美濃地図の街道[1]-門入村-街道[2]) 古来より山民や行商人や修行僧の多くはこの街道を使い近江国-奥美濃-越前や信 濃へ行き来していたと考えられるのである。事実、都を追われた蓮如上人はこれ を経由して越前へ入った形跡が残されているし、越前刃物商人の権六さんは門入 で刃物販売取次をしていた泉さん(門入出身で最古老85歳)と親子二代に渡って交 流していたとの逸話が残っている。また門入には釣人相手の旅館があり、いつも 権六さんはここで一泊し、八草峠を越えて近江へ向かったという事である。 【門入おこし協力隊資料のゲンロクさん】 武生の刃物、漆塗り器具の商人。義理と人情があり、"もちつ、もたれつ" の付き合いをした。 屋号:陶朱館 更に、この道は越美国境付近で木地師・山師等を生業とする人達の生活道路であ っただろうし、先祖崇拝(供養)のための礼拝御堂へ向かう道でもあった。 それは移転先の福井市木田町の長慶寺の檀家が今は無き高倉村、岩谷村、大河内 村、桝谷村、芋が平村、割谷村など木地師・山師を先祖に持つ村人だからです。 長者平は門入村と岩谷村とのほぼ中間で岩谷からの尾根道を下った水場のある 場所で、御堂のお守りと、旅人のための宿坊があったのではないでしょうか。 木地師・山師にとっての山の恵みも長期間採り続けると枯渇し 移動を余儀なく された思われます。朱砂(水銀)は辰砂と異なり浅い地層にあり、採り尽すと移動 せざるを得ないと言われています。 また、木地師の使うブナ原木も約50年周期 の移動で再利用ができるとの事で、これも人々の移動の一因と考えられます。 長慶寺の元寺の場所も、人々の移動によって長い年月を経て入谷村へ移動した のではないでしょうか。それは、言い伝えで入谷の古家村に寺があったと言われ ているからです。 長慶寺の元寺の移動は、山河の民の生業主体が古代より続く鉱物採集から、木 地師・段木生産(中世・近世)へと変遷して行ったと考えると、長者平・長慶寺も 入谷・長慶寺も共に正しいと考えられる。 【徳山郷の栃木権】 門入の北西谷にある入谷村で、初めは不動山(1240m)下にある不動滝付近で新 村を作り庄屋助左衛門らは、現在福井市木田町に存する かっては北の荘城主堀 秀政の菩提寺たる長慶寺を創建して栄えたものである。 <杉本寿 著>
※入谷は丹生(水銀)の取れる谷からの地名と伝わる。
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