歴史

慶崇寺のはじまり

    慶崇寺の起源は、平安時代中期(西暦950年頃)に建立された安楽三十坊(あんらくさんじゅうぼう)の1つであった安楽院にあるといわれています。安楽三十坊は、現在の福井市堅達町・坂下町一帯に 所在し、長い間天台宗の寺院集団として隆盛をきわめていました。 その影響で、仏教と縁の深かった堅達町には、安楽谷、地獄谷など仏教用語を用いた地名が数多くあります。 堅達町という名前も仏教用語と関連があり、紀元前1000年頃のインド古代神話の奏楽神団ガンダルヴァに由来します。


浄土真宗に改宗

   平安時代中期以降、安楽院は、天台宗の寺院として500年ほど維持されていましたが、 1464年、加賀山中において蓮如上人の高徳に帰依し、浄土真宗に改宗しました。この時の住職が初代了正です。それから3年後の1467年9月に現在の坂下町に寺基を移転しました。 しかしその後、戦国の動乱にまきこまれ、困難な時代が続きます。


一向一揆を経て

   永正3年(1506年)、加賀の一向一揆軍が越前方面に侵攻し、越前を統括していた一乗谷城主、朝倉氏と戦いました。 安楽院を含めた越前の浄土真宗のお寺も門徒とともに一揆軍に合流しましたが、朝倉軍によって敗走させられました。以降、数十年にわたって一揆軍と朝倉氏は争乱を続けました。1575年に織田信長は、 大軍を動員して越前の一揆軍を掃討し、安楽院も信長軍に焼き払われました。信長の討伐によって、堅達町にあった寺のほとんどは廃寺となり、後に、安楽院のみ再建されました。 慶長6年(1601年)、4代住職了誓の時、慶崇寺という寺号と左三つ巴の寺紋を下付されました。


松岡へ移転

   1654年、8代住職了春のときに松岡藩主松平昌勝公に招かれ、慶崇寺は、松岡に移転しました。その際、門信徒の願により坂下地籍にお堂を建立し六字名号などを残しました。松岡では家老の土地と屋敷を譲り受けて寺基を定めました。また、当時の住職は、度々登城して藩主の囲碁の相手をつとめていたと伝えられています。 第二次世界大戦中には、大阪からの疎開児童を受け入れました。昭和23年、丸岡町を震源とし た福井地震により本堂が倒壊しましたが、昭和31年に門信徒の尽力により再建されました。 初代了正の後は、了秀・了願・了勧・了誓・了玄・了意・了春・了圓・了廊・了廓・了品・了證・行教・空清・湛然・恵譲・前住職哲然と継職し現在の住職で19代目になります。