スカイライン MINI HISTORY



初代スカイライン(ALSI)
このテールフィンあたり,最高です。
 初代スカイライン「ALSI」は,昭和32年4月24日。日比谷の宝塚劇場の発表記念ショーをスタートに,華々しくデビューした。富士精密工業の技術の粋を集めて創られたこの高級パーソナルセダンは,当時としては,スタイリングだけではなく諸データも大きな衝撃を与えたといわれている。
 6人乗りのボディーを1484ccのG1型OHV4気筒エンジンが引っぱった。当初60psしかなかったが,当時のライバル観音開きクラウンなどより5ps以上の高出力を誇った。
 個人所有の自家用車であることを大前提に設計されたスカイラインは,足まわりにダブルウイッシュボーン+コイル/ドデオン・アクスル+リーフスプリング方式のサスペンションをおごった。
 優れた乗り心地を引き立たせたボディーサイドのストライプやテールフィンも画期的であった。
 その後70psにパワーアップしたり,4灯式ヘッドライトを採用したりといった進化を続ける。
 昭和36年富士精密工業が「プリンス自動車工業」と社名を変更した年に,1900ccのエンジンをのせた「BLSI」が発売された。
 途中,昭和37年には,幻の名車の一台であるスカイラインスポーツ「BLRA−3」も発売される。総生産台数58台(コンバーチブルは内25台といわれている)といわれケンメリGT−Rトヨタ2000GTなんかよりも,遙かに希少な車であった。(勝負できるのはZ432−Rぐらいか?)
幻のスカイラインスポーツ

 少し遅れて,この初代の最終期モデルとなる「スカイライン・スーパー」(S21)が発売され,2代目の登場へとつながる。


2代目スカイライン(S50系)
これ,うちの近くにあったんですよね
 2代目S50系は,オリンピックを1年後にひかえた昭和38年9月12日発表された。(HP制作者がまだハイハイもできない頃の出来事です)
 高度成長期をにらんだ,軽快なファミリーセダンを意図して設計されたこのモデルは,初代のデビュー時と同じ排気量1500ccのG1エンジンながら,70psもの高出力を引き出した。
 プリンスの技術力を示すためにシャシーの3万キロ・1年間ノングリスを保証したり,エンジンヘッドとブロックが封印してあったりと,画期的な車であった。この車の設計に,スカイラインの育ての親桜井真一郎氏も関わっていた。昭和39年の自動車技術会から「技術賞」が贈られたのも,このS50スカイラインの評価の一つといえる。
 さて,このころの日本は,モータリゼーションという言葉が口にされるようになり,鈴鹿サーキットもつくられ,日本グランプリが大きな盛り上がりを見せていた。
 このまたとないCMの舞台を各自動車メーカーが見逃すはずがない。プリンス自動車は,このグランプリに焦点を当てて,ある車の開発を行った。
 それが,ホモロゲーションをとりぎりぎりの生産で間に合わせた「S54型」の誕生であった。
 4気筒モデルのS50系をベースに,グロリア用のG7型直列6気筒の2000ccエンジンを詰め込んだこの車が,今日まで続く「スカG」神話のはじめの一歩である。
 当時1基10万近くしたといわれるウェーバーを3基も装備したり,エンジンルーム内に,ノーズを延長した継ぎ目があるとか,さまざまな神話が残されている。
 このG7型エンジンは,(当初はオプションであった)ウェーバーを装備すれば125psもの出力を持つ。排ガスとか排気音などの規制が緩やかな当時であったので,純正であってもかなり近所に気を使うようなたくましいエギゾーストが聞かれたそうな・・・
 いかにレースに焦点を当ててこの車を開発したかを表すエピソードとして,ミッションがある。3速+オーバードライブの4速マニュアルミッションであったが,その配置が,通常のローに後退。セコの位置にロー,サードの位置にセコ。トップの位置にサード(=トップ)。ODは,同じ右前。となっていた。(その後の,直結5速を謳っていたサニー1200GX−5とかも同じようなパターンを持っていた)
 この車を人に借りたりすると,信号待ちで無意識にローの位置にある後退へ入れてしまい,クラッチをつないだ瞬間,あれれれ・・・ということになって驚く人も少なくなかったそうな・・・
 その後,S54シリーズにウェーバー1基のタイプAが発売され(ウェーバーの生産が追いつかなかったからという噂も当時囁かれたそうな),それに伴いそれまで「2000GT」とだけ呼ばれていたモデルが「GT−B」となり,「ゴーヨンビー」などという愛称をちょうだいすることになる。(ちなみに発売当初は,「スカイラインGT」とだけ呼ばれていた。でも,箱スカの頃のGTとは位置づけが違うわけである)このころから,走りの赤バッジとムードの青バッジという色分け路線が始まった。
 また,丸いテールは,初代からS54型にも受け継がれ,すでに伝統を築きつつあった。
 昭和41年9月。プリンス自動車は日産自動車吸収合併された。このときから,ある意味で「技術の日産」になったわけである。しかし,合併後もS54シリーズのメーカープレートには「プリンス」の名前が残された。
 プリンス技術陣は,プロトタイプレーシングカーR380〜のシリーズでさらに腕を磨き,合併先の日産でその技術をふるうことになる。 


3代目スカイライン(C10)
スリットになったようなテールがたまらん
 昭和40年。上層部では日産とプリンスの合併の話があっている頃に,現場では次期スカイラインの開発が進んでいた。合併した41年頃には,すでに箱スカの試作車が完成していた
 43年7月に発売された次期スカイライン「C10系」は,「ニッサン・スカイライン」と呼ばれるようになった。高速道の整備を考慮した「エアロ・ダイナルック」と呼ばれるボディーデザインが斬新であった。(とはいっても,100kmを越えるあたりから,いかにも空気抵抗と戦っているぞ!という風切り音がする)
 当初はS50系と同じように,1500シリーズからの発売であった。プリンスの流れを汲むG15型エンジンは88馬力を誇った。(S57型(旧型の後期モデル)のCMで,2台が砂浜をがんがん走り,まるでアイスダンスのように,くるくると円を描きながらエンジン出力である「88」の文字を書いていくやつがある)そのエンジンを受け継いでいる。
 しかし,2000ccのGT−Bを知っているユーザーからは,物足りないという声が出される。満を持して,2ヶ月後の同年9月。日産製のL20型エンジンを搭載して「2000GT」シリーズ(GC10)が発売された。
 それでも,GT−Aレベルである性能はスカイラインユーザーを納得させきれなかった。とはいうものの,確実に進化しており,使い勝手や乗り心地などの完成度はかなり高まっている。
 GC10シリーズが発売されてから1ヶ月後の「第15回東京モーターショー」で,GT−Bユーザーをも黙らせたGT−Rが発表された。人々の大きな期待を受け,昭和44年2月ついに後の世まで語り継がれるGT−Rが発売された。
GT-RPHOTO BY KATOH

 ちょっと前に発売されていたトヨタ2000GTよりも10psしのぐ160psを発揮する珠玉の名作「S20」を搭載して,まずは4ドアが登場した。
 国内のツーリングカーレースで不動の地位を確立したのは,49連勝中の半分以上を稼いだ,この4ドアGT−Rであった。
 こういった硬派な世界で着実に力をアピールしながら,CMでは「愛のスカイライン」キャンペーンを展開し,イメージを売る斬新なCMで販売台数をのばしていった。
 この箱スカGTに限って話を進めれば,登場した43年型はライトの間にレンズが入っていたり,ひげがついていたりとこだわったデザインが売り。
44年式は,3ピースだったグリルが1ピースになり,ちょっと手が入れられた。
45年式は,4ドアは大きな変更はなかったが,デザインの極致2ドアハードトップモデルが追加される。グリルは縦縞タイプ。リアガーニッシュは,テールライト枠の切り欠きに沿ったデザインとなっている。
46年式は,9月に我らがGT−Xがラインアップし,それと同時に,GT系すべてのグリルがいわゆる最終型となる。縦縞からハニカム形状のグリルデザインとなる。45型ファンからは,リアガーニッシュもハニカム形状のデザインになったため,テール枠の切り欠きデザインの意味が無くなったと厳しくつっこまれた。しかし,その点に目をつぶると,GT−XエンブレムのGTX文字を囲む部分のハニカムとみごとに形状の連続性がはかられていることに気づく。ほれ。GTXの文字の周りをヨーク見て 見方によっては,最終型のグリルとリアガーニッシュの形状は,GTXのためのデザイン変更と言っても過言ではないのかもしれない。ちなみに,ハニカムグリルになっても,GTのエンブレムはゴールフラッグ模様のままになっている。(なお,46年式でも,この最終型登場の46年8月までにラインオフした型を通称「45型」としてまとめて区別する)
47年式には,GT−Xが4ドアにも設定され,最後は5速ミッションがGT系の標準となる。このころに,GT−Rはもちろんのこと,他の日産車同様に5速車の左テール下には,誇らしげに「5speed」のエンブレムが取り付けられることになる。在庫をはき出すための手段だったのかもしれないが,燃え尽きる前に光が強くなる花火のような終末を送り,次のケンメリにバトンを渡すことになる。
 (ここいらの変遷は,リンクのページから石田さんのページあたりで見られた方がよくわかります。)
 立てつづけに充実していったGC10系,通称「箱スカ」は第1回目のカーオブザイヤーも受賞したりと高い評価を受け,惜しまれつつ47年8月を最後に後輩に道を譲る。
 
これぞ史上最良のスカイライン


4代目スカイライン(C110系「ケンメリ」)
数が少なくなったよね。箱スカが残存数多かったりして・・
 車には興味なくても,CMのコピーは誰もが知っていた「ケンとメリーのスカイライン」
 ほぼ,どの家庭にも1台はテレビが普及していたこの時代。CMを通してのイメージ戦略は,そのまま売り上げにつながり,ベストセラーとなった。
 しかし,万人受けをねらい,「走りのスカイライン」というスポーツイメージをあえて多少削り落としてしまった。ケンメリTシャツが31万枚も売れたり,CMのBGMも大ヒットをとばし,一つの社会現象を作り上げた。
 登場時から,2ドア4ドアのバリエーションをそろえ,各々にロングノーズとショートノーズのボディーがあった。(ワゴンもあり)エンジンラインアップも1600・1800・2000(ワンキャブ・ツインキャブしばらくしてから最後のS20GT−R(KPGC110)が登場する)
 誰でも一つぐらいは自分にあったモデルが見つかるような感じで,多くのバリエーションをそろえた。その一方では,サーフィンラインやGT系の色分けなど,スカイラインの伝統ともいえるものを意識的に残した。また,GT系に丸いテールを復活させ,往年のスカG神話の血統を意識したデザインとした。
 しかし,折からの排ガス規制により,数値的にはかろうじて維持していたものの,運転してみてのフィーリングには明らかにダウンしていた。そんな中,GT−Rを失ったケンメリは,足まわりとブレーキを強化したタイプSに赤バッジを与えることになる。ライバルからは「名ばかりのGTは道をよける」とCMでこけにされる厳しい時代を「臥薪嘗胆」で堪え忍ぶことになる。
 スカイライン党の底辺を広げたケンメリの功績は大きい。次の5代目(4代目GT)「JAPAN」にも,いやおうながら大きな期待が寄せられることになる。(練りに練った試作車は全部で137台といわれる)
 昭和52年8月。大きすぎたケンメリのアメリカナイズされかかったボディーを省みて,日本の車らしさを追求したC210系にバトンを渡すことになった。 


5代目スカイライン(C210「ジャパン」)

スカイライン JAPAN 手前がジャパンTURBO

 多くの試作車で煮詰めて,日本のスカイラインとして満を持して昭和52年8月,5代目スカイラインは発売された。日本人が日本人のために作った車を開発コンセプトに「スカイライン ジャパン」というCMコピーで登場した。
 初代モデルから続くサーフィンラインやGT系の丸いテールも受け継がれた。さらに乗り心地と操縦安定性を追求して開発された。その足回りは専門家からも高い評価を受けたが,排ガス規制まっただ中のL20型エンジンには往年の走りはまったく期待できないものとなっていた。
 排ガスと走りを両立するために53年8月マイナーチェンジ。型式はC211になる。53年排ガス規制をクリアーするために,GT系には三元触媒とEGRをつけたL20をTI系にはZエンジンを搭載した。

 昭和55年4月。大幅なマイナーチェンジが行われた。これ以降のモデルがいわゆる後期型となる。
 矩形ランプ(角目)を採用し,イメージチェンジを図った。しかし,最大の話題は,GT−Rが消えておとなしかったスカイラインに,久々に走るためのエンジンが搭載されたことであった。
 0m→400mも16秒台をマークするいわゆる「ジャパンターボ」の登場である。
 145psの出力はS20のGT−Rには及ばないが,当時の2800ccエンジンに匹敵する高出力といわれ,磨き込まれた足回りと相まってGT−Rをしのぐ速さを誇った。
 このターボモデルは大人気で,ある時期のGTの売り上げの半分以上をターボモデルが占めたころもあったそうだ。さらに,このモデルがその後のパワー競争の引き金となって,各社からぞくぞくと追いつけ追い越せのスポーツモデルが販売されるようになっていった。

 自動車の暗い時代に生まれたジャパンであったが,日出づる国「JAPAN」の名にふさわしく,最後は走りの性能で脚光を浴びるモデルへと進化していった。
 JAPAN TURBOのフロントフェンダーには,あのGT−Rたちと同じ赤いGTエンブレムが誇らしく光り,スカイラインファンを喜ばせたものであった。
 しかし,カムシャフトが一本ということが,最後までGT−Rを知るファンを納得させられなかったのも事実で,DOHCモデルの登場は次のR30を待つことになる。

 型式が「C*10」というのが基本になるのも,JAPANが最後である。
 きちんとしたサーフィンラインも次のモデルでは一時消滅する。
 このJAPANがスカイラインの一つの時代の区切りであったといえるのかもしれない。

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