ぶつぶつつぶやき放題

 「そこまでいって委員会」の乗りで・・・
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悪は去れ
 最近,また小さな子をねらった犯罪が多い。ここでも書いたけど,「命は大切だ」とかいいながら,その命を奪った時の代償が安すぎるように思う。殺人件数は,以前の方が多いという数字もあるけど,貧しかった時代,食うに困って盗みをはたらき,嘘で塗り固めていくうちに・・・みたいな動機や,正々堂々とやくざとして抗争した事件とか,残忍性は似ていても,もう少しわかりやすい事件が多かったような気がする。
 翻って最近は,なんでそんな殺人をするんじゃ?とか,そんな子殺して,あんたにとって何のプラスがある?的に動機の理解に苦しむ犯罪が多いような気がする。殺さなきゃいけないような明らかな憎悪やねたみのような理由もなく犯罪に及ぶという,つかみ所のない事件が増えてきているような気がする。
 砂漠地帯の人たちが,(よほどの金持ちで,その一部の物の価値がわからない人はのぞいて)わずかばかりの水も無駄にせず大切にするように,「あって当然」という満たされた状況が価値観を狂わせてしまうこともあるのではないかと思う。明日は死ぬか生きるかの戦時中にあっては,日一日生き延びることにきっと感謝の念を持っていたに違いない。敵の兵隊は殺しても,自分の身の回りの人の命については,粗末にしてはいけないという意識があったに違いない。
 もちろん,現代も多くの人が「命は大事」と口で言うように,実際の行動においても他の人の生命をある程度尊重しているだろう。そうではない一部の思考回路が違った人たちによる犯罪は増えていくのではないかと心配する。
 これだけ豊かになった国のある意味宿命でもあろうが,我慢しなければいけない場面が時代と共にどんどん少なくなってくる。それだけ,忍耐力を培う機会を失っているともいえる。ある程度の固い意志を持ち,自分にほんとうの意味でのプライド・誇りがある人は,そのようなぬるま湯に甘んじることなく,無理矢理我慢する場面を自分に課し,精神の堕落に歯止めをかけようとしている。
 しかし,マスコミや低俗テレビ番組の影響か,「苦労は買ってでもやれ」という発想は白眼視され,二言目には人生楽しまなければといい,自分の逃げ場を探すことに翻弄されている。
 先日のサッカー日本代表の中田のインタビューでも「試合では楽しむことが大切です」といったことを言っていた。しかし,あれだけの選手が口にする「楽しむ」というのは,荒川静香同様,それまでに厳しい,苦しい練習を乗り越えた先に,リラックスして自分の力を出し切り,スポーツの楽しさを究極の場面においても味わうことができる境地の意味で「楽しむ」という言葉を使っているに過ぎない。
 最初から楽しいことばかりやって,楽天的に取り組んでいてもトッププレーヤーになれるぞ,『巨人の星』的なスポ根なんぞあほらし・・といっているわけではなかろう。
 耐える心を育てるには,欲求を拒絶する役回りの存在が周りに必要だ。失業率は依然として低くはなく,給料も上がらない今の世の中だけど,それなりに不自由ない暮らしを送ることもそんなに難しいことではない。そんな豊かな国にあって,忍耐力を育てる素地はどんどん少なくなってきている。
 それが,衝動を抑えきれずに犯罪に走ることや子育ての面倒から逃げてしまうこと(=出生率の低下,結婚率の低下)ニートの増加など,今の社会問題の根底に流れる,非常にわかりやすい原因の一つになっているのではないかと思う。
 昔の人も,そんなに意志の強い人ばかりではなかった。しかし,貧乏(豊ではなかった国の国民)が弱い意志を許さぬ社会の共通の価値観を作ってくれていた。その中で幼少時代を送った今のお年寄りは,ちょっとした善意にも感謝し,慎ましやかな暮らしを当たり前だと考え,それなりに幸せに暮らす人も多い。そういった感覚を持てば,世の中は(現在の日本を見ても)決して悪いものではない。
 このまま歯止めがなく,どんどん物質的に豊かになる社会にどっぷりと浸かり育つ人ばかりになれば,その人達の不満が出ない世の中を維持していくことは,時代と共に厳しくなっていくことは明らかであるような気がする。
 教育費がかさむので,子供は作れないという。別に塾にやらなくったっていいじゃない。塾にやってある程度の教育的投資をしないと,それなりの学歴を持つことができない負け組になるという。公立学校の渡り歩きでも,欲を言わずに真面目にやっていけば,それなりの仕事に就くこともできるじゃない。もっといえば,会社に入らずとも,手に職を付けるよう,弟子入りして必死に修行して一人前の板前や,大工の棟梁になるのもいい人生かもしれない。毎週遊園地へ行ったり,デパートでショッピングしなくても,元気な家族が何人かいて,のんびり暮らすというのも一つの幸せの形かもしれない。そんな中にハコスカを所有して唯一の楽しみを持つというのなんか最高では・・?
 考えようによっては,マスコミや野党がまくし立てるほど悪い社会ではないような気もする。感覚というか価値観というか,世の中を眺める視点のベースをどこに置くかによって,幸せにも不幸せにもなれるような気がする。
 これからの日本の最大の敵は,物質的に豊かな現状かもしれない。
 その中で溺れることなく,自分を見失うことなく生きていく逞しさは,これからもっともっと求められる力になってくるのではなかろうか・・・  なんか,思いつくまま書いて,とりとめもないことばかりではあったけど,心の赴くままに気楽に書いた梅雨の前の一日。  
今回はわずか3ヶ月で更新 2006,5,24


日本チャッチャッちゃ
 WBC(ワールドベースボールクラシック)が,日本チーム(王JAPAN)優勝で終わった。
ワールドカップ(サッカーの)以来の大声を出しての熱の入った応援をしてしまった。二次リーグ2敗目を喫したときには諦めてたけど,あの状態で勝ち残った時には,まさに「神風」の吹く予感はしたねぇ。
 審判の誤審やアメリカに有利なルールなど,非常に腹立たしいことが多かったけど,そんなものに屈することなく結果を出した日本えらい。決勝を戦ったキューバの皆さんも,フェアな試合だったので,悔しくても日本の優勝を祝福してくれてて,すがすがしかった。試合終了後,日の丸を焼いたり踏みつけたりするような野蛮なことをすることもなく,「キューバ」のお国柄に好感を持った。
 ただ,韓国チームにとっては優勝チームに2勝1敗で勝ち越しているので,「負けたとは認めない」と言いたい気持ちもわからないではない。しかし,その変なルールの中で戦ったという点は平等であったので,スポーツマンとしては口にすべき言葉ではないだろう。文句を言うのであれば,そんなルールをメジャーリーグ主導でがんがん決めていった運営当局に試合前に文句言うべきだろう。(確かに決勝までに3度もあたるというのは,ふつうの試合では考えにくい。《あるコメンテーターの話では,キューバやドミニカという優勝候補と,決勝戦までアメリカが対戦しなくてすむようにという実に「せこい」試合方法だといっていたが,そう考えると確かに変な組み合わせも説明がつく》)
 とにかく,いつも馬鹿正直で貧乏くじを引くことの多い日本だけど,今回は運も手伝って誰からも非難される隙のないきれいなプレーで結果を出したことは,大変誇らしいものだ。
 どの選手もまとまってよくやってくれて感動をもらった。その中でも,イチローのスピリッツは本当に見直した。メジャーに転身し,故郷日本のことなどは忘れてしまったのではないかと思ってしまうこともあったけど,今回の試合にかける意気込みは,リップサービスではなく,心からのメッセージであった。メジャーへ行っても,実力を認められるまでは,差別的な対応にいやな気持ちを持つこともあったときく。そんな,奢り(おごり)のあるメジャーリーグ(=を抱えるアメリカ)に,実力で何としても一泡吹かせたいという気持ちもあったに違いない。また,自分が育った日本に恩返しができる方法の一つとしても考えていたのではなかろうか。試合前のインタビューで,幾度も『自分のためでなく,チームのため日の丸のために全力を尽くす』という,コメントを胸を張って口にしてくれたことに感心した。
 ハコスカを生み出し,育んだこの日本という国,風土,文化を失わないようにしなければならん,と思いながら応援したWBCであった。  
んんん。やはり半年以上のブランク 2006,3,21


世界平和について考える・・
 そらそら,一年ぶりの更新と言うことで,タイトルは大きく出てきたぞぉ。
 8月になると,毎年核廃絶と敗戦にまつわる反戦の特番が組まれたり,ニュースの記事となったりする。
 戦後60年の今年,日本はアメリカの傘の下に入らせてもらっているとはいえ,限りなく9条を地でいって,戦争的なことは何も行わずにお利口に過ごしてきた。法的に軍隊さえも認めていない国なんて,ここ日本だけ。となると,自分のことをさておいて人にとやかく言うのは,一般社会なら「自分がしもせんことば言うなさ!」(「自分がしようともしないこと,やってもいないことを他人に求めていろいろ言うのはやめな」の九州弁)といわれて聞き入れてもらえないもの。その筋で言えば,先進国といわれる国の中で平和憲法を持ち,維持してきているのは日本だけ。だから,他の国が別の国の軍拡や戦闘行為に対していろいろイチャモンつけても,素直に聞き入れてくれないのは仕方ないが,自衛隊という半分張り子の虎のような組織しか持たない日本が言うことは,もっと素直に聞くべきではないか。
 と単純に考えてみる。
 しかし,現実はその逆で,独裁政権で突っ張ってかろうじて生きながらえているお隣の国からさえも相手にされず,つけ込まれっぱなし・・・
 ここまで,戦後60年。平和運動の結果がほとんど海外に対して説得力を持たない現実を突きつけられた今,私たちももう少し賢くならなくてはいけないのかな?などという迷いを持つ。
 日本の中で繰り広げられている,平和の大切さを啓発する活動,原爆の恐ろしさを知らせる活動は,それなりに価値はあり必要で,今後も続けていく必要があろう。しかし,それを続けていったら,世界は平和になるというのは,一種の平和ぼけ日本の錯覚に近いものであるかもしれないという考えを持つ勇断も必要かもしれない。
 たとえば,一番日本のことをわかってくれていなくてはいけない最も信頼できる同盟国と言われているアメリカは,原爆については一種の歴史歪曲とまでは行かなくても事実隠蔽をしっかり行っているし,日本に文句をつけるのが仕事のような隣国では,言わずもがなの状態。そのようなきっちりマスコミや情報が緩やかに統制されている多く(ほとんど)の外国にたいして,日本国内でわいわい言ったところで,ほとんど声が届くこともない。国連大使としてがんばって行ったって,外国であの高校生たちのことを国内のニュースとして採り上げ「この子たちの努力をくみ取って,私たちも核兵器廃絶と軍縮を積極的に行いましょう」などとニュースキャスターが国民に呼びかけるような国はあるのだろうか?(あったとしても,その放送局の方針に合致したときか,何かしらその奥に秘められた真のねらいに沿ったとき。純粋に平和100%の気持ちだけで採り上げて放送してくれる所ってあるのかな?)
 結局多くの外国にとって日本は,本音では部分的な経済力以外,資源も軍事力もない,外交も馬鹿正直にやっていて,「日○友好」という旗印を示せば,ひょいひょい尻振ってついてくる便利屋さんと軽んじられている側面が少なからずあると思う。
 もちろん,そんな難しいことの関係ない個人的なつきあいとしては,こんなお人好しな日本の国民性に好感を持ってくれる人はいても,国同士のつきあいである外交レベルでまで損得抜きで友好的につきあってくれるような国は,あまりないのではなかろうか?

 本当の世界平和を願うのであれば,今行っている平和推進活動もそれなりに継続しつつ,日本の考えに同調させることができる外交力を持たないと,いつまでも国内のニュースのネタで終わってしまう自己満足的活動で終始してしまいかねない。
 そのためには,ある意味外国のずる賢さを今は真似し,本当に力を持つまでがむしゃらに明治の頃の気持ちで努力する。世界中が日本の国の考えに大きく耳を傾けるように力を蓄えてから,再び,今進めているような世界平和のための援助活動などをアピールしながら世界の国々に対する認識を変えさせる啓発活動を行う。そのように力を蓄えるのがいやなら,世界平和なんていう大それたことは考えず,アジアの安定も最小限に配慮し,とにかく自国内だけは安定して国民生活が送れるように,輸出入の依存度を最小限にした暮らし方を国民に求め,有事の際は火の粉を振り払うだけの力は維持し,世界の中の序列など気にせずに,国民がある程度まじめに働きさえすれば,そこそこの生活を送ることができる社会を作って,慎(つつ)ましやかにやっていく。当然,国連には入るが,負担金など最小限に減らす。常任理事国なども望まない。外国からは,なんか弱小国に落ちぶれたと思われてもいいから,気にせずにエネルギーが少なくてすむ国へと変えていく。そして,明るい未来はないけど,暗い未来もない。がんばれば,それなりに暮らしが上向くというささやかな大和ドリームで満足できるような国にする。それしかないんじゃないかな??
 そこまで割り切れば,ある意味今の日本が目指している物は無くても心の豊かさがある国に近づけるのかも。所得が低くても,支出も少ない生活パターンで安定している家は,無理なく何不自由なく日々を過ごしていて,見た目とは裏腹,当の本人たちはけっこう幸せを感じているみたいな家って時々ある。その国家版。
 長くなったので結論。今やっていることは,続けていっても,多分世界平和にはつながらない。国内の平和教育で終わってしまうだろう。世界平和を考えるのであれば,外交・軍事いろいろと世界のスタンダードの価値観で考え,必要なことは,どんどん進めていく。
それがいやなら,外国にまで平和を振りまくといった大それたことは考えず,国の借金がなくなるような予算の使い方を考える。他の国に迷惑はかけないけど,身分相応の最低限の支援しかしない。(しかも,親日的国家だけに,相手国の国民に感謝されることを確認し,次年度の支援を細々と約束する。中国のODAなんてもってのほか。やっても感謝されないんだから,やらなくても政府に文句言われるだけで,国民は何にも変わらない。もらっているのがなくなるから不満が出ようものの,もらってる自覚がないから腹のたてようがないというもの。国内の財政立て直しを最重点に考え,しがらみ無しでばっさばっさやってくれる政治家にでてもらうのが必要ですね。で,多少の摩擦はあっても,目標達成の一点で軸がぶれていなかったら,市民団体や野党もいたずらに騒ぎ立てない。)
 世界平和の役には立たないけど,世界平和を脅かす具体的な行動は絶対に行わない。といった割り切りでやっていく,ってことかな?(外国は何か日本が有利に事を進めようとしたら,何かにつけ無理にこじつけて,軍国主義の復活とかいろいろ言うけど,気にしない。本当にその気がなければ,前向きに無視していく。ニュースでも採り上げない) しばらく,そんなことでもやっていかないと,何百兆円もの国債はぜったいなくならないのではないかと思う。世界は平和に少し近づいたということになったとしても,国の財政が破綻し,日本国内で暴動が起きて・・・みたいになったとき,外国は(自分の国にとばっちりが来ないように)鎮圧はしても,一部のNGO以外は日本のことを本当に思って手をさしのべたりはしないはずでしょうからね。手を差し伸べるということがあったら,必ずその裏で,何か国益の見通しがあったりという裏があって,真心でやってくれるなんてこと,ほとんどないから,自分たちの国がまずしっかりとこの先ずっと続いていけるようなことを考えることが,長い意味での世界平和の第一歩と,私は考えるのです。
 自己満足は,旧車趣味だけで十分。今回は勝手に過激なこと書いたなぁ。ま,「つぶやき放題」だから,テーマ通りの内容ともいえるわけか・・・というわけで,お許しを。 
 次回更新はまた来年か? 2005,8,5


けっこう当たっているかも・・
 ふり返ると,ちょうど1年ほど前に前回のぼやきを書き込みました。
 去る6月1日に,我が町佐世保で全国版のトップニュースとしてしばらく独占するほどの重大な痛ましい事件が起こりました。世に言われる「小学生カッター殺人事件」です。
 原因は,複数の要因が絡み合っていますので,単純ではないのですが,ネット社会や過激なシーン満載の映画などが遠因になっているということでは,どの記事も共通しています。
 私にいわせてもらえれば「ほら,やっぱり起きた。言わんこっちゃない」というのが正直な所です。
 学校現場でもIT化の流れは加速しています。コンピュータを使うことが至上命令みたいな時期もありました。私個人としては,一道具としてはとても有用なものだとは思っていますが,そのポテンシャルと応用の可能性の広さから,コンピュータがなくても生きていける人間をまず育てて,そのプラスアルファの道具としてコンピュータにふれさせるというスタンスが必要な気がします。
 映画「トータルリコール」で,シュワちゃんが記憶を売る会社で旅行の記憶を脳に植え付けるという場面がありましたが,日常的にゲームなどでバーチャルリアリティーの世界に長くいすぎると,脳が現実と頭の中での出来事(仮想現実)との見分けができなくなるのではないかと思います。
 もっとも,シューティングゲームなどを長時間やっていると,目で見て「認知」脳で「判断」手で「操作」というサイクルがショートカットして,「認知」→「操作」という短絡的な行動をしがちになる『ゲーム脳』といわれる回路ができて,現実の世界でも善悪の判断などを経ずに,ムカ→グサッ といった短絡的行動に出る子どもたちが増えると言われてきました。
 今は,まさにそれが表面化しつつある時です。文部科学省は,こういった低年齢の青少年犯罪を目の前にして「心の教育」に躍起になっていますが,それを妨げる要因が現在の生活の中に多すぎて,学校という限られた世界だけでのその一部の授業において多少のことをやったとしても,根本解決にはなり得ないと思います。
 わたしの予測としては,三菱車の出火と同じぐらい,これからまだまだいろいろな形で犯罪が増加・多様化してくると思われます。こういった事件を分析して出された「対策」を講じてもです。(対策と思われているものの中には,次にこういった犯罪を引き起こす遠因になっているのもあったりして・・・)
 現在の技術などの進化に,完全に人間はついて行っていません。自動車の進歩はそこそこいいとしても,人間様が楽できる文明については,諸手を挙げて喜ぶ時代は過ぎつつあるのではないかと世に問いたい気持ちです。
 そう考えると,自分に試練を与えるためにも,ハコスカに乗り続けなければ!! ハコスカに乗り続けることは,人間らしさを失わないための私なりの方法なのです。(と,家族に話して末永い維持を説得してみようっと。オイオイ)   来年が怖い 2004,7,26


世論に一石3
 ええい。連日のアップじゃ。
 某大臣の発言が,問題だとしてまた取り上げられています。「4人の子にも責任があるような言い方・・」私は,4人にも責任があると思います。犯人80:4人の女児20ぐらいでしょうか?
 もちろん,あんなことをする犯人たちがいなければ,ああいった悲劇は起こらなかった。
 でも,4人の子たちのように金のために,どこへ行くとも家族に告げずに,大人びた格好をしてふらふらと都会へ遊びに出て行くという行動は,どう考えてもおかしい。
 仮にも,このごろのように,子どもたちが巻き込まれる事件が多い時期であれば,学校でも当然そういった事件に巻き込まれないような指導をしているはずです。しかし,そういった指導を全く守らずにあのようなことに巻き込まれたのは,明らかにあの子たちの責任もあるはずです。
 結果として,無事に保護されて,取り返しの着かないようなことにならなかったことは幸いです。しかし,それだからといって,100%すべて被害者として保護されるべきものではないでしょう。事件の刑事的な面から考えると,犯人が100%悪く,女の子たちは100%被害者です。
 しかし,この犯行を成立させる要因を作ったという点(これは,犯人たちに陥れられたと考えられますので,目をつぶることができます。)本来女の子たちが,小学生の常識として守るべきことを怠った,子どもにそういうことをさせてしまうほど,家庭の教育力が低かったということは,誰が見ても明らかなことでしょう。
 こういった事件があると,「前の事件の教訓が生かされなかった」という言葉も報道で流されますが,今のような何でもありの世の中であれば,加害者の立場となる者も後を絶たず,自分を律することができず,自衛の意識までも放棄して,楽しいことに走ってしまうことをとがめることのない風潮が世論やマスコミから消えることがなければ,学者さんたちがどんなに分析をしたところで,同様の犯罪は減ることがないと私は思います。
 犯罪があったら,すべて大人だけが悪く,町に出かけようが援助交際に手を染めようが,すべて大人が悪い子どもは何も悪くない,という話しの流れであれば,それは大きな間違いでしょう。自分のことは棚に上げて次々にこういったことに足を踏み入れてしまう子どもは後を絶たない。
 仮に,今回のような悲劇に発展しなかったら,掃除の駄賃であるにしろ,そういった労働行為を小学生がするということに何の問題もないというのでしょうか?明らかに補導の対象でしょう。
 子どもたちが本当にかわいかったら,当たり前のことを,きちんと守らせる,最低限のことを親はやかましくいっても徹底させるべきです。そこで,止めきれないから,昔みたいに変な人が少ない世の中ではなくなった今の社会では,犯罪に巻き込まれてもやむを得なしと思います。
 この「世論に一石」シリーズは,一部の人々からは非難されるような内容もあるかと思いますが,テレビで全国的にふれ回っているわけでもないし,私は重要なポストにある政治家でもないし,思ったことをそのまま書かせてもらいました。  思わず書いた2003,7,20


世論に一石2
 このページって,あまり更新しないので,見られることも少ないと思いますが,2年ぶりに更新です。
世論に一石でも書いていましたが,案の定,あれから2年。好ましからざる方向へ社会は傾き続けているように思います。 厳罰化ですべてが解決するとは思いませんが,私のように意志が弱い人間には,かなりのプレッシャーとなり,悪事に対する歯止めになるように思います。
 ストレスがあるから・・とかで犯罪が許されるのであれば,そんなに楽なことはないし,被害者側にとっては「ただの加害者のわがままだろう。自分の心で乗り越えられなかったツケを周囲への危害という形で消化するなんて。」という思いではないでしょうか?
 少年犯罪については,依然としてマスコミの論調も同じですが,一方で,飲酒運転の取り締まりと罰則強化によって,違反件数が激減したと諸手をあげて報道しています。大人がそのくらいだから,ましてや人間として発展途上の青少年に対してはさらなる効果があるはずです。
 たぶん警察関係者は,「くそっ。反則金の徴収額が減ってしまい,国庫が寂しくなる・・・」などと思っている人は一人もいないでしょう(たぶん)。それよりは,「飲酒運転そのものが減って,よかった。」と素直に喜んでいる人が多いはずです。反則金が増えて,生活に苦しむ人が増えるおそれがあるから,厳罰化はいかん!などという人は,一人もいないはずです。(もちろん,少年法のことと,全く同じ舞台で考えることはできませんが,共通点は少なからずある)  核兵器を容認するわけではありませんが,大量破壊兵器を持っている国がいいわけとして使う「抑止力理論」は,わからないでもありません。本当にこの先,絶対に結果的に使われないのであれば,一つの選択肢かもしれません。(はじめから使わないというのであれば,何の抑止力としての意味もありません。使うかもしれないぞと脅して,使わないというのであれば・・・) それによって,外交問題さえも左右するほど,人間というのは本質的に力に弱いものです。であれば,少年法の改正等で何歳であっても,悪いことをしたらそれなりの責任をとらされるのだぞ,という抑止力を法に与えると言うことも考えていかなければならないのではないかと思います。
 年齢制限は,必要かと思います。私の考えでは10歳か11歳です。10歳といったら,小学校4年生。自分がしていることが,いいことか悪いことかの判断ぐらいはつきます。100%わからなくても,言って聞かせればある程度は理解する力は十分にあると思います。それ以下の場合は,すべて保護者が責任をとる。ここまでセットにすれば,必ず危害を加えたら,加害者は何らかの形で責任をとるという当たり前の図式が実現されます。
 某大臣のように「市中引き回し・・」にまでする必要はないかと思いますが(もちろんたとえとして話したのでしょうけど)何をしても守ってもらえる,その気を見せれば,簡単に人生をリセットできる(まるでテレビゲームのように)という抜け道があれば,やはりその場その場での感情を抑える理性というものが,十分に働かないのではないかと思います。
 だれだって,やくざさんを前にして,金がほしいとどんなに感情的に思っても,その結果がどうなるのか明白にわかっていたら,襲って金を奪おうなどとは考えないでしょう?どんなに美人の極道の妻がいたとしても,身分がわかっていたら,自分の欲望を抑えることができるでしょう?それでも押さえきれない場合は,それなりの代償を自分が払うというのも当然のこと。ぼこぼこにされようが,指の一本がなくなろうが・・・
無意識レベルにしみ通るまで「悪いことはやっちゃいけない。人に迷惑をかけるし,自分にも最終的に降りかかってくる」ということを小さい頃からことあるごとに話をし,マスコミもそういった論調で,いいことはいい,悪いことは悪い。悪いことをしたら,それぞれの立場に応じた代償を払わなくてはならない,というあたり前の姿勢を示すことができるようになれば,少しずつ世の中は正常化されていくのではないかなと思います。
 もちろん,並行して,変な知識や感情を助長するようなテレビ番組や,ゲームソフトは,法による規制が必要かと思います。(これは,報道の自由の制限とは違うと思います。どうしても自由にさせろと報道の立場から非難があるのであれば,許可はする。しかし,その番組がヒントになって引き起こされた事件すべてについて,番組制作者や放送局,並びにスポンサーの社長すべてが共犯者として多少の償いの一端を担うというぐらいの覚悟の上でやってもらわないと,見る人がいるから・・的な考えでは結果的に無責任と言われても弁解できないのではないかと思います。)
 被害者のことを考えると,犯罪を起こした子を更正させるというより,そうならないようにそれまでの躾や犯罪に対する意識の変換(人を傷つけるとは大変なことなんだということ)を徹底するというのが,本来の姿で,誰も傷つかないですむのではないかと思いますね。
 人権やプライバシーの保護は,軽んじてはいけないものですが,過ぎたるは・・・・
 今は,もう過ぎてしまっているような気がしてなりません。
 以前仕えていた上司が「人間バランス感覚が大切じゃ」とよく話していました。
 我が子も,先日中学生に殺害された子どもと同じ年になりました。あのニュースが連日報道されている頃,夜急に泣き出したり,ミニPTSD的症状が見られました。我が家では,困った人には親切にしなさい。道に迷っている人がいたら,教えてあげなさい。と教育する方針です。そういった当たり前のことが裏目に出るような世の中は,早くざっくりとなおしてもらいたいものです。  世の中いろいろとおかしくなってきていることは,誰の目にも明らかです。
 超久しぶり2003,7,19


世論に一石
 同じ年代の男が大阪の小学校へ入って,無差別殺人を起こしたというニュースが飛び込んできました。
 世の中いろいろとおかしくなってきていることは,誰の目にも明らかです。
 「開かれた学校」という文部科学省の方針も,今回の事件で水を差されたようなことになってしまいましたが,どちらかに割り切らないと,何もできないような気がしますね。
 も,いっそ,塀で囲って,部外者一切禁止にするとか,事件にびびらずに,国民を信じていまのままオープンな方向へ学校を持っていくとか・・・(当然そうするには,子どもや親の不安を少しでも取り除くために,精神状態がどうであろうと,学校内での凶行は,無条件死刑とか(せめて終身刑)いう法的な歯止めをつけないと・・・。校門にガードマンを一人立たせるとか,校内巡視を増やすとか,効果のない方法を堂々と口にする人たちの気が知れません。わざわざ学校まで入ってきて凶行を働こうという思考力・決断力のある人が,そんな抜け穴だらけの警備に引っかかるほど馬鹿ではないと思う。また,一日中,学校を巡視するのは誰? そこまで学校の先生も暇じゃないでしょう。)
 教育改革国民会議というのが組織されて,これからの教育・ひいては日本という国(というか,そこにすむ国民)のあり方についていろいろと議論なされてきたようですが,現状を見て,これまでのやり方には,何かしら思い違いをしている点がまちがいなくあった,と素直に非を認めることから解決の第一歩がはかられるような気がします。
 人間ってすばらしい生き物であるとは思いますが,弱くて汚い部分を持ち合わせた存在でもあると思います。自由な本人任せという考え方は,限定された場面では立派なことといえるかもしれませんが,それですべてを片づけようとなると,だれにとっても住みにくい世の中になっていくのは間違いのないことでしょう。(今の世の中を見ると,やや楽天的な妄想(に近いもの)だったといわざるを得ないようです)
 自動車社会に,スピード制限がなくなり,不可抗力的な原因以外の事故が世の中からなくなったら,すべて個人任せの自由な世の中にしてもいいかもしれませんが,現実問題として絶対無理。と考えるのが正常でしょう。(それほど,人間様はりっぱではない・・・欲望に振り回されてしまう人が多数いる(自分もその一人?(^^;))。多様な考え方が共存できない。)
 排気ガス出していて人様に迷惑をかけているので,偉そうなことはあまりいえませんが,
みんなの迷惑にならない範囲でのみ許される自由。
 悪いことをしたら,相応の罰則(いいことしたら賞与)。
 加害者の人権は制限されて当然。(被害者・遺族の心情を最優先に判決をくだす)という,当たり前の社会常識で,素直に物事が片づけられるようになると,もうちょっと住みやすくなるのかな??(自分の子どもが殺されたなんて考えると,加害者の年齢や精神状態は関係なしです。選択肢はなし「あなたにもこの世から消えていただきます」と思うのが,ふつうの親ってもんじゃないでしょうか? その心情を,法で制限されるとしたら,あまりにも不公平!!)
 何でもありの自由な環境で,逆に何をされるかわからないと毎日をびくびく過ごすのって,本末転倒で,はなはだ滑稽なことだと思いますが・・。
 箱スカができた頃は,もう少し世の中に常識・不文律というものがあったと思うんですけどねぇ。
 久しぶり2001,6,10


考察 グリーン税制
 悪法も法。グリーン税制が取り入れられるようになりました。
 ま,未対策車の排ガスについては,あまり大きな声では言えないような気がしますが,年式でスパッと分けての増税というのは,素直に受け入れられないような感じです。
 景気対策も必要ですが,国を挙げて車の買い換えを促進しなくても言いように思います。使える車をつぶして乗り換えるということこそ,最大の環境破壊(資源の浪費)と言えるはずです。国際的に取り決めた条約の目標値に達成できないからということで,じたばたしているわけですが,地球の資源や環境というもの全体を考えると,当然,人間の便利な暮らしというものは制限されることになってしまうと覚悟すべきでしょう。(よほどの一挙両得といえるようなグッドアイディアで解決されるものは,その限りではないでしょうけど・・)
 車にしても,トータルバランスに優れた名車は,簡単にモデルチェンジせずに,地道なマイナーチェンジを必要に応じて行い,モデルチェンジ5年後ぐらいからは,開発費用を差し引いたお買い得値段として,実用国民車として,ずっと売りつづける。装備の面などは新鮮みがなくとも,必要最低限のものだけをつけて,あとは耐久性を追い求めたモデルに磨き上げる。それらの車種には優遇税制を設けたり,最低限の性能維持のためのメインテナンスは,補助金を出したり・・・とにかく,消費=ベストという価値観が変わるような世論操作も含め,今の流れをぐぅっと変えないと,古い車を買い換えさせるだけでは,大して地球のためにはならないように思います。
 掲示板にも書いてあった「製造後9年以上のガソリン車の車検継続不可(特定地域内)」何ていうのも,その場しのぎの法案みたいな気がします。  ほんとうに地球の環境や人類の未来のことを考えるのであれば,多少は従来よりも不都合があっても,そのレベルまでわたしたちが敢えて降りていくということをためらわずにできるようになることが必要であるように思います。
 というわけで,グリーン税制。あれはいかん。ほんとうにいかんぞ。  
2001,誕生日


プレステ2を買ったのだ
 春から話題のPS2を買いました。たまたま,近くのおもちゃやさんに,訳あって「たこ糸」を会に行き,レジで100円払ってふと見ると,青い箱がショーケースに乗っていました。
 ん?と思い近づいてみると,プレステ2。空箱かと思い持ってみると,入ってる。
 売りもんかどうかきいたら「売り物」との返事。限定○○台とか抽選で○○名様という売り方しか見てなかった私は,次の瞬間財布に手をかけていたのでした。(しかし,何で一台だけわいて出てきたように残ってたんだろう? ま,展示品だったとしてもいいか・・)
 ¥39800で,すんごいプレステ2ソフトのゲームもできる。CDもDVDも見れる。USB端子やPCスロットもついて,何かできそうな予感を秘めてのこの値段は驚きです。
 こんなHPを持っているから,パソコンはけっこうはまってやってます。DVDを見るようにと,去年からお茶の間シアターセット(サラウンドアンプ&スピーカー)を設置しています。
 かと思うとその反面,スカイラインのような古いもんに乗ってたり,未だ携帯電話なるものは我が家に存在しなかったりと,両極端な私です。
 ま,新しい=優れている・・満足できる という図式に,必ずしもあてはまらないところに,人間のおもしろさがあります。ということで,今日もテレホンカードが手放せない私の毎日です。  
2000,6,23


狼少年的標識について考える
 自分のページをチェックしていて,ふと思いました。GET BACK SHOWAの最後の「あの頃・・・」のページの写真ですが,何ともまぁすっきりとした道路でしょうか。
 狼少年の話は,みなさんご存じでしょう。いつもうそを言っていたので,ほんとうに狼が出たときに誰にも信じてもらえなくなってしまうみたいな話です。
 最近の道路標識にも似たようなものがあります。
 交通安全協会とやらがつけた「徐行」とか「急カーブ」とかいうのに多いですね。ブレーキを踏まなくても楽に曲がれるようなコーナーにはへたに警告標識を出すべきではないと思いますし,ましてや「すぐに停止できる速度」である「徐行」という表示は,ほんとうのほんとうに必要な場所だけに出さないと,「徐行=若干速度を落とす」程度に麻痺してしまいます。
 知らない道を走るときも,これらの標識で必要と思われるものは,全体の1割程度でしょうか?
 大げさな標識をやめて,ほんとうに危ないところだけに「速度落とせ」とか「○○だから20km/h厳守」といった表示を精選して出すべきでしょう。
 そんな標識がないために事故を起こすのは,やはりドライバーが責められるべきで,行政や警察などがいちいち気にしていては,ほとんど意味のない標識が氾濫することにつながります。
 親切にしすぎると,人間が判断する力や危険を予測する力が衰えてしまいます。
 ほんとうに危ないところには,きちんと予防線をはっておくべきでしょうが,ドライバーの緊張感さえも奪うような過保護な標識類は,考え直すべきでしょう。(結局は金の出所は国民・ドライバーでしょうから)
2000,5,27


 100%後のまつり
 わたしのカーライフで二つだけ,悔やんでいることがあります。一つは,HPにも書いていたかもしれませんが,初めに持っていた箱スカ第1号を手放したことです。外装的には,今の2号車とかわらなかったのですが,素性がちがいました。
 大きな事故にあっていなかったので,ラインや走りがびしっとしていました。んんんんん・・惜しかった。
 もう一つの後悔は,近くの箱スカに乗っていた知り合いから,『都合により,車を手放したいが,だれにもかれにもは売りたくない。よかったら買ってくれないか?』という話がありました。箱スカ2台は苦しいということで,(できればほしいというのが偽らざる気持ちでしたが)承諾できずじまいでした。
 その車は,45年式のGTHT。PW付きのATモデル。という稀少なもの。そして,「GET BACK SHOWA」のオープニングに載せている一桁ナンバーのついた車だったのです。
 よその県の一桁では,同じ陸運管轄でないと,何かと不都合なことがあります。ただでさえ一桁ナンバーが少ない箱スカなのに,我が町の一桁ナンバーとなると,たぶん最後の一台であったはずです。
 今の車も非常に愛着があるので,手放したくはないので,本当に悩みました。やはり経済的な理由から買う決心をすることができなかったわけですが,もうたぶんこんな箱スカの売買話が出てくることはないでしょう。
 ボディーはレストアすることができます。「2000」番のナンバーも取ることができますが,一桁のナンバーだけは,地元に生き残っている車がないと,どうしようもありません。(万一残っているとしても,大切にしている人でしょうから,たぶん手放すことはしばらく無いでしょう。)
 大げさに言うと,わたしの人生における一桁ナンバーの箱スカオーナーになる最初で最後のチャンスを逸してしまったわけです。もうちょっと金があれば・・・・  
 あの車はいまどこへ・・・・?? 希望ナンバー制度もいいですが,そんならごちゃごちゃした3桁なんかじゃなく,新車当時の一桁ナンバーをとれるようにもしてほしいものです。(でも,そうなったら,何となくありがたみが少なくなるような気もしますけど・・) 
2000,5,3


 人は,従いたがっているのか,従いたがらないのか
 一人一人の自由について,よく語られるこのごろです。
 そんなときによく引き合いに出されるのが,行政などの管理主義への批判です。
 そういった風潮から,規制緩和などが言われるようになり,徐々にお上に従わされることが少なくなってきました。それにより,自由競争がさらに実現されるようになり,ものごとが合理的に資本主義経済の原則にそって進められるようになってきたというメリットもあります。
 このような「規制」というものではない「規範」というものがありました。
 イスラム教や熱心にキリスト教を信仰する国のように,人の価値判断で語れない部分を「神」の名のもとに歯止めをかけることができない日本は,人様には迷惑をかけないという常識が最後の砦だったように思います。
 さて,見かけ先走りの「自由な国」日本(これは言い過ぎかな?)。社会の道徳規範というものも,なにやら怪しげになってきているような気がします。
 これまで縛られて,ある一定の水準に社会のモラルも落ち着いていたわけですが,枠がなくなりいよいよ一人一人の道徳意識が問われるようになりました。人間関係の信頼と同じように,築きあげるのは大変ですが,壊れるのは早い・・・
 果たして,今の日本が心の底から住みやすい国であるかどうかは,非常に疑問の残るところです。
 最近になって,先行き不安な「自由」の反動か,強いリーダーシップを持つ指導者なども求められるようになりました。人々は,自由になりたいようで,心の片隅に頼れる存在を望んでいるのではないかと思えてなりません。(男女関係の妙も似たようなことがあるような・・)
 一人では生きていけない私たち社会的生物「人間」は,従わずに自由を望んでいるようで,実は何かに従って安心感を心の底で求めているのかもしれません。
2000,4,23


 だれの人権?  昔は,つぎのような言葉がよく集団のモットーとして言われていました。
 『一人はみんなのために,みんなは一人のために』
 私は,この言葉が好きでした。わかりやすいし,集団生活の基本だと思うからです。
 しかし,最近は『みんなは一人のために。一人は自分のために。』と思えてならないような出来事や人の行動が目に付きます。
 集団のために誰かが何かをするということが,個を滅しているいけないことだと直結して非難されることが多い風潮があります。
 こんなHPをつくることができるのも,私個人の自由が(私の人権の一つとして)尊重されているからですが,個人の人権がすべてに優先される最後の切り札みたいに濫用されているふしがあるようにも思います。
 たとえば,法律で何もかも束縛されるようなことは,当然よくないことではありますが,個人対集団は,個人対多くの個人でもある場合があります。
 社会の中でのマナー違反は,特にそういった色彩が強く,『自分の勝手=自分の人権の主張』みたいにいう人がいますが,それは明らかに間違いです。
 昔の日本は,礼儀正しく,人と人とがわきまえを知っていて,外国から見て気持ちのいい国であったようですが,そういった面が平成になった頃からみるみるすたれていってしまったような気がします。 
2000,4,5

 先日新聞の「天声人語」みたいな欄に,『アメリカでは製品に奇妙な注意書きが増えている。たとえば「このマントでは空は飛べません」「赤ちゃんを乗せたまま(ベビーカーを)折り畳まないでください」といった内容のものだ。
 これも,訴訟社会の・・・』といったことでした。
 この訴訟社会病に,だんだん日本も感染しつつあるようです。
 一方では,昔からの日本の良さであった「他人に迷惑をかけることはしないという常識」「人様の過ちは多少は大目に見てやる情」といったものが残る一方で,「そんなのやったあんたが悪いんじゃ」と子供にでも判断つきそうなことが裁判の舞台に乗せられるようになってきているような気がします。
 一度,世の中がそのような方向へ動き始めると,控えめな人・正直者・人のことを考える人がバカを見るといったことも増えていき,なかなか人と人とが純粋に信じあえるような社会は戻って来にくいものになりがちです。
 いつの世も,自分のまわりに信じられる人はいるものですが,そうでない人は何をしでかすか気が休まらないような世の中になるのは,非常に寂しいものです。
 少なくとも,我が箱スカを新車で買った人たちは,自分たちの責任において最低限メーカーを信頼しながら,ハンドルを握ったことでしょう。 
2000,3,27(birthday

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