北方・長慶寺
   織豊時代の名将・堀秀政ゆかりの寺である。日本紋章学には「堀氏は斎藤氏の庶流であって
 美濃国池田郡堀村に住し、この地を苗字の地として起こった」とあります。 現在は堀村はな
 いが織豊時代の美濃絵図には堀村が載っている。
   堀秀政は幼名を久太郎と称し、父母共に宗門の出であり、叔父の堀掃部太夫も一向宗徒で、
 織田信長に仕えていた。(後に脚気病の為、第一線から引退) 堀掃部太夫は村人からは毛坊主
 と呼ばれ、土地柄から考えると段木(薪)の販売管理の仕事の他に道場の管理や役僧等もしてい
 たと思われる。(下記の ※村人の葬式を参照)
 堀秀政の幼少期は、この人の下にあって成長し、後に「名人・久太郎」と呼ばれる武将となっ
 たが、この頃の実践的な(人との関わりも含めた)教育によるものが大きいと考えられる。
  また織田信長は鷹狩りの際には堀掃部太夫の亭で休憩したとの記録が「武家事記」にあり、
 この折に堀秀政と堀直政を織田信長に推薦したとある。 (永禄8年 秀政13歳の時)
【後日談】
 数年前「信長の野望」と言うゲームが流行っていた頃  堀秀政に憧れた人々が北方・長慶寺を訪れていた。私  もその一人でしたが、ご住職が不在でしたので、お手  紙で質問をさせて頂いた処、約半年後に住職から電話  を頂きまして、段木流送が明治の砂防法により出来な  くなった話をしたら、住職が子供の頃(昭和初期)、先  代に連れられて大垣へ船で段木の運搬をしたことを話  してくださいました。また堀秀政については(福井に  はその形跡があっても)当地にはその形跡もなく残念  です」と仰ゃっていました。
 ※村人の葬式 昔の門入村道場での葬式へ