門入道場は信仰の場だけでなく、村の集会や個人的な法要や普請の食
事場(道場坊の許可必要)としても使われました。文字通り村人の共同施
設場でありました。徳山村史によると門入・塚・櫨原・山手等は「寄り
合い道場」で二か寺以上の門徒(門入は浄土真宗と禅宗)が共同で建設し
たものと言われている。
ここには特筆されるものとして親鸞聖人の孫にあたる如覚上人の十字
名号が安置されています。これは鯖江の西福寺にある如覚の筆になる十
字名号と似ていて、如覚が書いたものと言われています。
門入道場の、この名号が最初から道場の本尊として下付されたのであれ
ば、この時代に道場が経営されていた事になるが定かではない。
道場の世話人の話が"門入おこし協力隊"資料にあり、村人の毎日のお
勤めの読経や、誠照寺本山、西福寺の'お回わり'の時の役僧も勤めた。
〜寺の世話人〜
・老人か無職の人
・奉仕で務める。米、豆類など村人達が寄付(お礼)する。
・世話人は、朝夕時を告げる太鼓を打ち鳴らす。
・世話人は葬式も務める。
福井鯖江から年に四回僧侶が訪れたとき位牌で葬式を行う。
・棺桶は栗の木で作るので、どの家でも栗の木の板を持っていた。
・通夜の時に棺桶を作った。
色和紙を使い木の表面が見えなくなるくらいに飾りつけた。
・法事(初七日、二七 日、三七日、四七日、五七日)は野菜の煮物
とご飯一杯だけ。魚や肉は使わない。法事は夜に行った。
・五七日は、猫脚の膳を使ったご馳走で香典返し(お土産などなし)
民俗学者の柳田国男が「毛坊主考」に次のように書いている。
「当国に毛坊主とて俗人でありながら村に死亡のものあれば導師となり
て弔うなり。・・中略・・此の者ども何れの村にても筋目のある百姓と
して田畑を持ち、俗人とは言えど出家の役を務むる身なれば・・・・」
と門入道場の世話人そのものである。「毛坊主考」は飛騨地方の形態を
描いているが、奥美濃も山間地で同様のことがあったと考えられる。
昭和初期の美濃徳山民俗誌に葬儀の様子が描かれています。人が死ぬ
と誰かが道場の"一流れ半の報せの鐘を打つ"と全部に家から手伝いが出
る。また報せの日の夜には村中の家から人が出てトギをする。
死人の枕元には線香をたてるだけで何もしない。出棺の時にはオトキ
という会葬者に膳が出る。このオトキが済むと茶碗で一杯だけタチ酒を
飲んで出棺する。棺を担ぐのは実子又は甥でその履物は草履である。
女は白い角隠しという被り物をして葬列に従う。男は羽織袴で行く。
墓地がないから棺の行く先は焼場(サンマイ)である。人を焼く時には
会葬者の多くは帰り、親戚と人を焼くことを恐れぬ人だけが残る。焼く
時には酒を飲み飲み焼くという。サンマイと言っても築土で囲まれてい
る場所で何の設備もないから完全に焼いてしまう事が難しく、焼け易い
ように竹棒で処理せねばならず大変だったようである。酒を飲み飲み焼
かなければやり切れぬ仕事であったようである。
葬式の仕事や焼場に携わった人々は不幸の家で夕食をよばれ、その夜
は村中の人々が、この家に集まり僧の説教を聞いたりしてお通夜をする。
そして翌朝骨を拾い、この骨は越前の本山に納めていた。
故人の最後を村人みんなで送る雰囲気が伝わり、故人への感謝と村人
の結束の強さが感じられる。
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