小浜市西津の地蔵盆

 西津の地蔵盆を訪れたのは、昭和61年と62年である。子どもたちが囃す「マインテンノー、マイテンノー」というフレーズは、言葉は違うが、ほかにも似たようなフレーズを聞いている。たとえば、この『音の伝承』でも紹介している「とおかんや」の「トオカンヤ、トオカンヤ」の始まりは、そっくりである。
 地蔵盆については、『遥北』号に記事があるので転載する。
1.はじめに
 関東地方においては7月に、また、関西地方では8月23日から24日にかけて、地蔵盆の祭りが行なわれている。特に京都を中心とした地域では町内ごとに地蔵尊を飾りたて、提燈を吊り下げ、青果や菓子など供えものをしている。また、夜には子供会による花火大会があり、大人達は数珠くりを行なっている。
 福井県小浜市西津の「地蔵盆」を、昭和61年と62年の二度訪れたが、ここの化粧地蔵はよく知られている。本稿では地蔵盆の起こりを先学の著書を参考に紹介し、小浜市西津の地蔵盆を訪れることにする。


2.地蔵盆の成立
 中国から地蔵思想・信仰を受容した時期は、6世紀後半とも、7世紀中頃ともいわれている。「正倉院文書」や「日本霊異記(にほんれいいき)」(823年頃成立)には、8世紀中頃に既に地蔵菩薩への信仰が存在していた記載がある。しかし、それらは観音菩薩の霊験話が圧倒的に多く、地蔵菩薩の話は各書とも一、二の例にすぎない。顕著に地蔵菩薩への信仰が表われるのは、平安時代後半であり、その著名なものに「今昔物語」(平安後期成立)巻十七があり、地蔵菩薩について十三話を収載している。そして、奈良時代には上層階級の人々の写経など限られた人々に知られていたが、「今昔物語」においては、貴族から僧侶、下人、従者にまで幅広く、地蔵菩薩の利益が及んでいる。
 鎌倉時代以降、文芸や公家・武家の日記に地蔵講・地蔵参詣・地蔵縁起絵などの記述が、多く見られるようになる。しかし、地蔵盆にかかわる記載はなく、室町時代末期に至ってもそれに関連した記載は見られない。
 こうして考えていく中で、いつごろ地蔵盆が成立したかが課題となるだろう。真鍋広済民は「地蔵菩薩の研究」の中で、「山城国中 浄家寺鑑」を挙げ、地蔵祭りと地蔵盆の結び付きを「地蔵尊の縁日は毎月の24日であるから、この日には毎月地蔵講が催されたり、地蔵祭りが営まれたことと思われるが、その内、干蘭盆月に行なわれたものを特に、地蔵盆と称したものと考えられ、それが子供の手によって催された」と、想定している。
 地蔵講、あるいは地蔵祭りを取り上げて地蔵盆の原初形態としているが、この地蔵講・地蔵祭りが行なわれるのが24日の地蔵菩薩の縁日であった。この24日を地蔵菩薩の縁日とすることは、中国に由来している。南宋の感浮六年(1270)に示寂した、虚堂禅師の私集である「虚堂録」の巻七によると、当時、五祖山に戒禅師という聖僧がおり、1日の宝光仏から始まって30日の釈迦仏に至るまで毎日、一尊ずつを至心に礼拝し、それが各尊の縁日に展開したが、24日に礼拝したのが地蔵菩薩であったという。
 先にも紹介した「今昔物語」に「今日はこれ月の二十四日、地蔵菩薩の御日なり」という表現があり、24日を地蔵菩薩の日とする習慣が11世紀末頃には一般化していたといわれる。
 地蔵盆の原初形態である地蔵講についても「今昔物語」巻十七に説かれる僧仁康の逸話が知られている。

『今は昔、京に祇陀林寺という寺があり、そこに仁康という僧が住んでいた。時に、治安三年(1023)の四月頃、疫病がはやり、道には死屍が累々と横たわっていた。これを愁えた仁康の夢枕に一人の小僧が立ち、告げていうには「もし汝が地蔵菩薩の像を造ってその功徳をたたえるならば、現世に迷う人々を救い、あの世では地獄で苦しむ人々を救うことができるであろう」
 夢から醒めた仁康は、早速、大仏師康成に頼んで半金色の地蔵菩薩像を作って開眼供養し、その後は多数の道俗男女を集めて地蔵菩薩を供養する地蔵講を催した。そうすると、仁康や信者たちは、ついに疫病に冒されなかった。』

 平安時代中頃以降、地蔵菩薩を供養する地蔵講、地蔵会、地蔵祭りが行なわれ始めるが、それらは出世間的地蔵菩薩の供養日であり、今日行なわれているような、子供達の参加する地蔵盆とは異なっていたようである。
 先にも述べた真鍋広済氏の想定でいくのなら、現在のような地蔵盆の催事がいつ頃から行なわれるようになったかという疑問点が浮かぶわけである。
 江戸時代に著わされた、滝沢馬琴の旅行記「覊旅漫録(きりょまんろく)」には、
「七月二十二日より二十四日にいたり、京の町々地蔵祭あり。一町一組家主年寄の家に幕を張り、地蔵菩薩を安置し、いろいろの供え物をかざり、前には燈明捉燈をだし、家の前には手すりをつけ、仏像の前に通夜して酒もり遊べり」
と、記載されている。この様子をうかがう限り、現在の地蔵盆がこの頃既に行なわれていたということになる。また、「拾椎雑話」には

「毎歳七月二十三日より四日へかけ、子供集り町の辻に有る石仏に盛物をそなへ、籏をたて鉦をたたき地蔵祭と云ふ」

とある。子供が辻にある石仏に供え物をし、鉦をたたく風景は現在の小浜市西津に見られる地蔵盆そのものである。
 これら江戸時代に著わされた随筆などから、地蔵祭りが地蔵盆であることは確かなようであり、真鍋広済氏の想定したように地蔵盆の原初形態が、地蔵祭りに求められることはうなずけるものである。そして、奥野義雄氏は「地蔵盆と念仏講」(仏教民俗学体系6)の中で、地蔵講→地蔵祭り→地蔵盆の変移について、地蔵菩薩への供養形態が祭礼化し、地蔵講から地蔵祭りへと移り、さらに呼称の変化を余儀無くした要件が加わり地蔵祭りから地蔵盆へ、というおのおのの結び付きを想定している。
 いずれにしても、あくまでも想定であり、直接的な変遷の伝承資料、文献資料が見られず、いつ頃変移したかは定かではないようである。


3.小浜市西津の地蔵盆
 変遷を想定し、また各地の事例を参考に小浜の地蔵盆を訪れてみることにする。
 小浜市西津は中央に国道162号線が走り、両側に古い街並が続く漁港である。ここの地蔵盆は毎年8月23日24日に行なわれている。町内にある祠から取り出された地蔵を子供達が潮で洗い、絵具で彩色し、組立地蔵堂(2×3間位のもの)を建て、そこへ祀る大掛かりなものである。各町ごとに行なうため、地蔵堂に祀る所もあれば、当番の家の表の間に祀ったり、公会堂へ祀る所もある。かつては専門の地蔵堂を建てるのが普通だったのだろうか。この地蔵堂が造られるのは、現在では街によって異なるが、前日に造る所が多く、地蔵を化粧するのも前日、あるいは20日頃という所もある。堂の表には赤、黄、緑などの色紙を長く張り合わせて「南無地蔵大菩薩」と書かれた幟旗が笹竹に下げられている。また「南無地蔵尊」と書かれた提燈が吊り下げられ、賽銭箱が堂の入口におかれている。奥の祭壇には普段は路傍に立つ地蔵尊を移して祀り、華やかな幕が張られ、本尊の地蔵尊はよく見えないが、前には小さな朱塗りのお膳に小さなお椀など載せ、ご飯やご馳走が盛られている。さらに前には子供の喜ぶ菓子が山のように供えられていて賑やかである。七軒町あたりでは、この地蔵堂を建てるが、他の町でも堂は建たずとも、祀り方は同じである。
 23日朝、子供達が鉦と太鼓をたたき、「起きろ、起きろ」と囃し、町内をまわることで、地蔵盆が始まるという(私は未見)。子供達の親方を「大将」といい、中学2年生が務めるという。
 町内をまわると、あちこちに飾り立てた堂や宿が見られ、子供達のたたく鉦や太鼓の音が聞こえる。堂の前を通ると
「マイテンノー マイテンノー
  マイラニャ トウサンゾー」
の囃し言葉で賽銭をねだるのである。賽銭をあげると、「アリガトー アリガトー」と囃し立ててくれる。囃し言葉には他に「ナームジゾウデーボサツ(南無地蔵大菩薩)」を繰り返し囃すものもある。
 小浜の地蔵盆の趣を特に示す点は、道端で行なわれている、小遣い稼ぎ風の地蔵供養だろうか。前述した地蔵堂での子供達の囃し言葉を道端でもやっているのである。石ころに地蔵の絵を描き本尊にして菓子箱を賽銭箱として小遣いを稼ぐのである。中には小型の地蔵を本尊にしているものもあるが、石ころに地蔵の絵を思い思い描いているのもおもしろい。この道端への出開帳は、西津に限らず小浜の駅前でも出開帳して鉦をたたく女の子達がいて、「どれ、お地蔵様を見せてくれ」と、ころがっている石を起こすとここでは彩色がされていなかったが、欠損している地蔵を本尊に賽銭を稼いでいた。ちなみに、小浜駅前近くの地蔵
盆の様子を少しうかがってみたが、子供達の声はあまり聞こえず、西津のような賑やかさはなかった。
 さて、華やかに彩られる化粧地蔵は絵具で彩色されているが、漆で塗ったものも中には見られる。前日にお地蔵さんを海へ洗いに行き、彩色を行なう所が多いようで、祭壇に祀ってしまうと、きれいに塗られたお地蔵さんを見ることができず、祀る前に行かなければならない。
 京都あたりの化粧地蔵は、青、赤、黄の三色を使うようであるが、小浜では茶、金、銀と色彩の制限はなく、地蔵尊の光背には朝日のように横縞な線がはいり、自由自在な彩色が見られる。
 23日は夜になると大人達が集まり、地蔵和讃の念仏が行なわれ、勤行のあと供物の菓子・果物・賽銭が子供達に分けられるが、これが子供達の何よりの楽しみである。子供達にとっては、1年中でもこれほど楽しみの日はないのではなかろうか。お地蔵様のおかげで、公認で賽銭を稼ぐことができ、たくさんのお駄賃がはいるのだから。


4.地蔵盆に見る習俗
 子供達の親方を大将と呼ぶところをみると、子供組の習俗がそこにはあるようだが、特に子供組というものはないという。小浜の地蔵盆に見る子供組的要素をあげると次のようなものがある。
@ よそのお堂にあげてある旗を奪いに行ったり、行燈を こわしに行くような習わしがあって、「アンドン破りに来たら、元帥や大将が追い払う」ことが、かつてあった
 という。
A かつては堂に泊り、おこもりをしたという。これらは道祖神の祭りにみる習俗と類似し、朝早くに「起きろ起きろ」と町内を囃して回る点は、私が訪れた長野県下水内郡栄村箕作(みつくり)の道祖神祭りとそっくりである。
B 賽銭を献じさせ、それを子供達が分配する習俗も、道祖神の祭りに見る。獅子舞による各戸よりの御祝儀を、親方が分配権を持ち、子供組の秩序を保っているのと同様な形である。
 現在の小浜はこうした子供組的拘わりが、大将とその配下にみられているが、かつてはもっと子供達による祭りが確立していたのではないだろうか。他所の地蔵盆には、既に大人の関与が強く、子供組的要素は見られないが、わずかながら小浜にはその形態が残っていると思われる。そして、特に道祖神に見る習俗に似ていることに気がつく。


5.地蔵盆の事例
 他所の地蔵盆の事例を「地蔵盆と念仏講」奥野義男著(『仏教民俗学体系6』)より紹介する。
・奈良市西の京地蔵盆
 この地域では毎年七月二十三日に各町内に祀られている地蔵石仏を掃除し、祀られているところに提燈を吊り、お供物を捧げて地蔵祭りを行なう。かつてはこの日の夕刻から子供も大人とともにズズクリ(百万遍数珠繰り念仏)が地蔵石仏の前で営まれたが、今日では町内の老人によって、御詠歌が唱和されるようになってきたのである。
・大阪市西区九条の地蔵盆
 この町の地蔵盆は毎年八月二十三日から二十四日にわたって行なわれているが、町内・隣組ごとに地蔵石仏が祀られていて、地蔵盆の提燈が飾られ、地蔵石仏の前にたくさんの供物が供えられる。かつては夕刻には地蔵石仏の前で大人も子供もともにジュズクリを営んだ。このジュズクリの後、町内の人々が参加し、狭い路地で盆踊りが行なわれる。この盆踊りは今でも行なわれているが、ジュズクリは三十年程以前に絶えてしまった。ただ、町内によっては老女によって御詠歌が唱えられるところもあるという。
・京都市北区大宮玄塚南町の地蔵盆
 この町の地蔵盆は、毎年八月二十二日から二十三日にわたって行なわれる。地蔵石仏の前に供物を捧げる。また、地蔵の絵を描いた曼荼羅や子供の名前を書いた提燈などが飾られる。夕刻には、ジュズ廻しが行なわれたが、今日その行事はない。そして、かつては、盆踊りなども行なわれていたが、今はもう行なわれていないということである。
・滋賀県野洲那中主町比江の地蔵盆
 この村では、七月二十四日に地蔵盆が行なわれる。かつては、この日の夕方、地蔵石仏の前で円座になって子供らがジュズ廻しを営んだが、今では行なわない。また、紙芝居を子供らに披露し、あるいは「お説教」を行なったところもある。
・岡山山県玉野市胸上の地蔵盆
 この村では、八月二十三日から二十四日にわたって「地蔵の縁日」と称し、地蔵盆が営まれる。この地蔵盆の日には、村の者以外の人も詣でるという。この村には、六カ所に六つの地蔵石仏があり、中央にある地蔵石仏を中心に、美しく化粧する。この土地では「化粧地蔵」と呼んでいる。地蔵盆の二十三日には、地蔵石仏が水洗いされて、子供達によって化粧されて祀られる。そして、石仏の前に花や菓子などを供える。とくに初盆の家は、沢山の供物を捧げるのである。この化粧地蔵の前で盆踊りが行なわれる。この地蔵石仏には、子供が丈夫に育っていきますようにという願いが込められているとともに、五穀豊穣の祈りも盛り込まれているとも、虫追いの願いもあるといわれている。
・高知県長岡郡本山町の地蔵盆
 この本山町では、大字ごとに盆の日が異なるが、八月二十四日に地蔵盆を営む七戸の村では、地蔵に菓子・赤飯などを供えて祀る。特別な行事は行なわないといわれている。ただ、村の人たちによって、地蔵石仏の前に供物が供えられて、地蔵盆の提燈を飾って、地蔵石仏を丁寧にお祀りして終わるという習わしである。
・兵庫県西宮市段上の地蔵盆
 この村では、毎年八月二十四日に地蔵盆が営まれる。この日、寺の地蔵尊の前に供物を捧げ、夕刻には村の老女らが地蔵尊の前で御詠歌を唱和して、地蔵尊を祀る。かつて、この日の夕刻には、盆踊りが営まれて盛大であったが、戦後にはこの地蔵盆の日に盆踊りをしなくなったということである。
 このように地蔵盆には、子供の関与があり、また、大阪京都・そして奈良周辺地域には百万通念仏数珠繰りが営まれている。


6.地蔵を塗る習俗
 柳田国男は、雑誌『嶋』の創刊号に「高麗島の伝説」として、五島列島あたりで聞いた伝説を載せている。その内容は、
「むかし繁栄して、高麗焼と呼ばれる陶器市を焼いていた 島に、霊験のいたってあらたかな一体の石の地蔵菩薩が あった。その地蔵さんが信心深い人々の夢枕に立って、顔が赤くなった時には大難の前兆と心得て、さっそくに 逃げよというお告げをなされた。ところが、これを馬鹿にしたものが、絵具でお顔を塗って、逃げて行くものを笑いの種にしようとしたところ、島は一朝にして海の底に沈み、残ったものはことごとく溺れ死んでしまった。」
という伝説である。
 柳田国男は同様の伝説が『本朝故事因縁集』や『東洋口碑大全』…巌谷小波…上巻に出ていて、中国の話として伝えているが、島の名は万重島といい、金剛力士の石像の顔の色が赤く変じた時には、島が滅ぶという伝説だったと述べている。
 一方では、五島あたりにおいて、赤く塗ることで豊漁のまじないとしている所があるという。
 柳田国男は『菅江真澄遊覧記』の中に出てくる、秋田県南秋田郡北浦町、男鹿半島鳩崎の海岸にあった梵字を彫り付けた石碑が「寝地蔵」と呼ばれて、ふだんは横にしてあるが、雨乞いの時だけは立てて、田の泥を塗るという例をあげている。洗わなければならないので雨が降るという考え方で、他の地方にも同様の例がある。雨乞いではないが、奈良県山辺郡二階堂村の「泥掛地蔵」は毎月二十四日の縁日には、いまでも仏体に泥を塗っているし、大阪府南河内郡下の太子付近にも、病気祈願の時、自身の患部と同じ所に塗りつけて祈ると直るという「泥掛地蔵」があるという。
 このように化粧地蔵の習俗例は多く、また地蔵に限らず青面金剛や道祖神などにも見られ、私の身近な長野県内においても、石像に彩色する習俗が見られる。
 柳田国男は『日本の伝説』の中で、地蔵にものを塗り付ける習わしの例をあげ、「石地蔵にいろいろの物を塗り付けること、これも仏法が持って来た教えではなかったやうであります」と述べている。
 しかし、雨乞いのためにものを塗ったり、病気祈願のために患部と同じケ所へものを付けたりする習俗と、一年に、あるいは数年に一度地蔵を洗い浄め、彩色する習俗とは、少し異なっているようにも思われる。湯立神楽において、湯を人々が浴びれば罪や汚れも払われ、魂が再生される、という考えと同様に、地蔵石仏に見る化粧地蔵は、一年間の汚れを洗い浄め、色を塗り替え、新しい威力を持たせようとする意識があるのではないだろうか。


7.おわりに
 地蔵盆が道祖神の祭りと共通したものを持っていることを知り、どの信仰にも根底に同じような意味を有していることを教えられた気もする。夏の終りを告げる趣あるこの行事を、またいつか、訪れたいものである。
 
 参考文献  『化粧地蔵』 三村幸一 淡交社
         『仏教民俗学体系6』…仏教年中行事… 名著出版